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灯りっこ(ほのかな小さい灯り)を点す

『灯りっこ(ほのかな小さい灯り)を点す』代表取締役高橋英雄
このタイトルは「あの日」から会社の意思であり、スタッフや私の思いと願いです。

「2011年3月11日東日本大震災は、私や私たちにとってある意味、極限状態に突然放り出されたと言えるような、あまりに大きすぎる出来事でした。

そして、未だに私たちを重苦しい気持ちにさせる。あの3.11は、どんな言葉も芸術的表現をもってしても、とらえきれない得体のしれない大きすぎるモノです。
そのことを知ってから 時に辛くとも敢えてあの3.11と共に生きることにしました。
そして10年過ぎても続けていることは、あの時の沢山の出来事からただ、学び考えることです。
聞こえないことが聞こえてきたり、見えないものが少しずつ見えてきたり、つまり耳をすませば3.11は私たちに今も語っているし、ことあるごとにカタチを変えて人や物を通して目の前にあらわしてくれています。
それは、ものすごく「大切なこと」「大事なこと」を語っている、そんな気がするんです。

<会社と>

1905年創業、本家からのれん分けしてもらい祖父が始めた水産加工。
兄の戦死で加工会社を引き継いだ特攻隊帰りの父。
数多ある水産加工食品で作ってこなかったものはないくらいのチャレンジと小零細加工業の浮き沈みの歴史。何もなくなった戦後の混乱時、高度経済成長期の流れ、不況。
そして東京から戻った私は父母と地べたを這いまわるような練り製品大手の下請けを経て、どうどうと自社の名前で無添加の練り物の製造と販売を開始することになりました。
無添加商品を求める生協との出会いから40年以上、多くのことを学び慢心や失敗もありながら業績も伸ばしてきました。

<3.11>

そしてあの3.11、石巻市内の三工場全壊、被害総額24億円、79名のスタッフ全員解雇という苦渋の決断、会社は創業106年目、私が60歳の時でした。
残念ながら家族を亡くしたスタッフもいたが、社員が全員無事だったのが救いだった。

何か月も水も電気も止まった。遺体がモノのように浮いて或いは転がっていました。公設私設の避難所は寒く初めは食べ物も水もなく年寄りから乳児まで痛みを超えた苦しみに突き落とされてました。
流されて生死の境をさまよい、或いは家族を亡くし、そこには辛うじて生き残った人、当たり前ですが、生き残った人達が語る言葉もなくしただ茫然と身を寄せ合っていたのです。
もしかしてすぐ隣には死んだことさえ分からない死者たちもいたのかも知れない、そんな重い空気で覆われ、実生活も考える時間も止まっていました。

<避難所の仲間、ボランティアとNPOに通う若者たちが教えてくれたこと>

避難所では次々課題が湧き上がりました。水・食べ物・寒さ・乳幼児や高齢者、障がい者、病気や予防、(汲み取り式のトイレ)の紙などから始まり、支援で派遣医、薬、食品や衣服、スト-ブ、灯油、プロパンガス、井戸水、携帯充電池など、行方不明者探しそして被災自宅の片付け、学校再開。徐々に心の問題も見えてくるが、一人一人が考え何人かで考え決まり事や支援品分配や外部対応の行動責任者とチームを作る。ボランティアさんたちの無償の支援が特に被災住宅の片づけから始まる。

反面「光が見えた」のは、がむしゃらに震災前に戻ろうとしたから??
いや!見えたのではなく(手っ取り早く)光にしただけではないだろうか。
人は弱いもの、余計なことは考えず震災前の「安心」「幸せ」を取り戻したかっただけ。
過去は心安らかで幸せだったんだろうか?・・・とは言え あのような状況下、あの混乱時に考える余裕も実際なかったのですが。

どんなに復旧して行っても「息苦しさ」「生きづらさ」「虚無感のような意味の無さ」「無力」「無気力」は重低音のように、あの本震余震の地響きのようにまとわりついて離れない。
「何か」を見てしまったんだ、そうじゃないか。
当たり前と言われていた事業再開、片づけが進む復旧の中、「どう生きるか」「生きている意味は?」なんて、そんな答えがない問いで苦しむ私がいて そんな問いが私の進む前や後をふさぐようになっていった。
そんな中でも避難所では、より弱い人を支え合い、皆で考えて「悲しみ」も「苦痛」も「小さな喜び」も共にしてみんなが少しづつ顔に生気を取り戻してくる。
私はと言えば 延べ1500名の取引先生協関係や学生ボランティアの手厚い支援が毎日当社の背中を押し続け、何故と言うくらい熱すぎる支援者たちに気持ちも救われたと言える。
私たちが少しでも元気になると笑顔も増え、その笑顔で私たちも元気になる。

<引きこもりたちとの出会い>

2013年7月 隣町東松島市の高台に新たな工場を建てた。借り入れは震災前の2.5倍。売り上げは未だ50%台の水産加工会社が立ち上がった。
2年後の7月、NPOが支援している「引きこもって無業の若者たち」と出会う。
石巻広域圏(20万人)で15歳から39歳の引きこもりの若者たちは1000人を下らない(2013年NPO法人の話から)という現実だった。
笑顔もない、上目使いで人を見て目は合わせない、話ができない、表情がない若者もいた、しかし殆どは障がいも無いそうだ。
その表情から被災した者が持つ生きづらさ、心の拠り所もない、そんな同じものを感じたのだろうか、とても気になっていた。
その5年後、2018年3月 新たに借入をして野菜加工場竣工。
引きこもりの若者たちの就労訓練を始める。我々は野菜(加工)は素人、若者たちは休むだけでなく作業もできないという現実に、私の想いだけが先行した無謀な取り組みだ。「私たちは変わるんだ!」「この地で自ら光になるんだ!」の声が二重三重、どんどん困難が重なり、ため息で消えそうになりながらすべての難しいという言葉を飲み込んだ。練り部門のスタッフ達は、反対しながら協力してくる、まさに手取り足取り若者たちに向き合い関わってきた。全国の取引先生協は、青果の生産者を繋ぎ、加工した商品を購入し始めた。
今(2021年9月)には7名が入社、内2名が正社員。3人が生活保護から抜けそうだ。赤字は続くが、彼らの家に「灯りっこ」が、隣近所にも、そして小さな野菜加工場にも時に消えそうになりながら「灯りっこ」が集まっている。一部の生産者も生協も賛同し協力してもらっている。
就労支援とか育成とか福祉とか、とてもそんな立派なことではない。小さくても課題を解決する作業と事業と思いの両輪でを目指して補助金もなく毎日毎日伴走した。それは大きな事業活動。

<野菜加工の若者たちから学ぶ>

彼らを作ったのはこの社会だ、私たちだ!と今ではそう思う。
震災前もだが、今はより加速して暴力的で不条理を感じ 人のこころはどんどん渇いて荒んでいく。違和感を感じているのに無視している。この加工場に「吹きよせられてきた」彼らは弱いんじゃない、甘えているんじゃない、適応できないんじゃない、怠け者じゃない・・。ただただ繊細で自分自身に正直で不器用なだけだ。
NPO法人(ワーカ-ズコ-プ石巻地域若者サポ-トステ-ション)のスタッフたちの粘り強い対面話し合いと私どもの振り返りや継続作業の中で何十人もの若者たちが個々のその背景を話し始めた。貧困、虐待、ネグレクト、格差、いじめ、不登校、偏見、精神病院の病名診断と投薬、3.11の災禍や別れや喪失、職場の生産性パワハラ、指示待ち労働、対面会話不足や分断、ネット依存、昼夜逆転、家族の諦め、無理解や過剰保護、生活困窮・・・必死に抜け出てはい上がろうとすればするほど夥しい困難さが気持ちを打ちのめす。
数え上げたらきりがない現実に「引きこもり」「無業」と呼ばれる。
周りは、自分はそうじゃないと同情するような目線で若者たちを見る、しかしその人は自分自身を見ていない。自身と真摯に向き合えば見えないことが見えてくると私はそう思っている。例えば 必要なのは、ハグで互いの体温を感じるなら、互いの存在を痛みも含めて抱き合い感じるということ。
もう一歩深く考える。すべてに疑問を持ち違和感を研ぎ澄ます。
会話ができない若者は野菜加工作業で雑談も、作業が早い子は遅い子を手伝い、遅い子は自分にしかできない丁寧で繊細な作業を増やし、きつい時は助けや交代を頼み、頼めない子は周りが気配りしそれに気づき、各工程で滞ったりしないように流れをよくする工夫をする。人の痛みを知っているからこそ 気配りと気遣いと思いやりが、結果として生産性を上げていく、結果としてだ。知恵や工夫は、評価して取り入れる。
「楽しく楽に、面白く…その結果 早く正確に」となる。
若者に求めるのは「支え支えられる」「自分と向き合う」「自信」「笑顔」「元気で大きな声」「痛みを理解し思いやる行動は自分を変え自他を救う」「自分が変わると周りも変わる」
ある若者に聞いた「みんなが変わって一人前になったら、他と同じ仲間(組織)になるのか?」 若者は即座に答えた「違うと思う」 何故とまた聞いた私に答えが返ってきた・・・「みんなそれぞれ痛い思いをしてきているから・・」

野菜加工場の若者と直接間接の触れ合いの中で 練り物の加工場のスタッフもわずかずつ変わってきた。
ある時、練り製品のスタッフが私に話をした。「夕べ子供と話ししてたら、それをじっと見ていた奥さんが言った。アンタ、何かあったの?」「えぇ!どうして?」奥さんが言った「子供との話も向き合い方も、私に対しても貴方は変わってきたから」
社長、自分では分からないけど?・・と。私は即座に答えた「練り製品の品質を何年も考え追いかけ続けてきたこと、そして野菜加工場の若者たちの存在だと思うよ」
彼は部屋を出際に「社長が以前言っていた人間性という言葉が少し分かった気がします」と・・・彼の家にも奥さんにも子供にも、彼の心にも灯りっこが点った。

変われば「灯りっこ」を点す仲間になり地域に仲間が増える。この地域にだ。

東北、関東、北陸、東海、近畿、関西、九州とこの9年、語り部で歩って、コロナ下ではオンラインで交流し、あの惨禍と今とこれからの夢を語って来た。・・・・夢かも知れないが、「夢」を小さなカタチにしてもっと変わって行こう。
震災後はため息はすべて飲み込んできた。今は違う。ため息をつきながら、無くしている笑顔を無理してでも作りながら、自分を見つめながら、少し格好よすぎるが、自分とこの世間の様々な違和感に抗いながら自分が灯りになり「灯りっこ」を点ける旅は続く・・・。

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