1年

早いものでもう1年が過ぎました。
市内でも被災者が仮設住宅から、また沢山のボランティアさんが全国から集まり1年目を節目にしようと前日から悼む会や追悼式が行われてました。

しかしゴメンナサイ。

少なくとも私にとって今年の3・11は決して節目ではありません、節目にしようがないとそう思えるのです。
前日10日にはテレビで初めてその映像を見て涙が止まらないだけでなく、そうであればボタンを押せばいいものを切れない自分がおりました。

薄れゆくとは言え言葉にならない体験は心の底にずっしりと重くしかし忘れていかなければ明日を生きていけない私がいます。
確かにそうなんですが、忘れてはいけないことをしっかりと刻み込むように涙の向こうの映像を何故か詫びながら強くならなくてはと念じながら見続けていました。

あの濁流の中にも流される車の中にも人がいて恐怖で泣き叫んでいる

リモコンボタンを押せば簡単に映像は消えますが、消してはいけない、目を逸らさず涙で流さず苦しくとも見続けなくてはいけないと誰かが言っている、そんな気がして。

そうして生きることは、供養ではなく残されたものの重い務めのようなものだとそんな気がします。

凄惨すぎる体験と癒されぬ痛み、暮らした土地を奪われ家も生きた証も無惨な姿に変わりはて、しゃがみ込むような二重三重の重荷を抱えて
それでも前に進む私達だけにしか出来ない務めだと最近そう思うのです。

震災前でも今でも支援してくれる皆さんの周りにある悲しすぎる沢山の問題(貧困、格差、、虐待、自殺、暴力、差別、弱者支援、性、幼児虐待、育児放棄、躁鬱、孤独死、温暖化、原発とその放射能汚染、食の安全性・・・)が全国にありました。
そしてそれが被災地で悲しいことに「今」顕著に現れています。    

その一つでも小さくともいいから解決の糸口が見つけられないものなのでしょうか。
本当は何が大切だったのか、幸せって?  人を思いやるって・・・今回少し分かった気がしています、情けないことにあんなことがなければ分からなかったのですが。

私の務めって…
きっとそんな悲しみが少しでもなくなるようにとの皆さんの願いを、被災した私達しかできない そんな気がするんです。

毎日のように皆様から頂く何通ものお便り。
美味しかったよ! 涙が出ました、しっかり家族で味わいました、噛み締めました、小さい子供にも分かるんですね話せば、よく立ち上がってくれました、頑張ったね、
励みになり勇気が湧いて、支援し続けます、寄り添います、すぐ後ろにいつも居るからね、苦しかったでしょう、おでんセットいつまでも待ってます、身体だけは本当に気をつけて、頑張りすぎないで、いつも一緒にいます。。。。。有難すぎてもったいなくて・・・

私達は身の丈の復興に向けて、でも少しでもつま先に力をいれて、身の丈を伸ばして、決して無理をせず息長く私達にしかできない、私達だけができる、私達がしなくてはならない務めを生きます。

厳しいけどそう生きて行きます。あの映像を消さないでください。
本当の無念なことにならないように祈って下さい。

原発は要らない、山や里では、昨年は5cm、1年で10~20cmずつ放射性セシュゥムが地中に滲みていくと言われ地下水、川、海へと。そして行き場のないそこで暮らすしかない人々。
宮城県の私達は地震と津波とで全てが失われた、そして放射能もまき散らかされた、当該企業は正式にお詫びもなくお金の話だけが先行する。福島県は悲しすぎるこれからを生きるしかない、あまりにも酷すぎる。
私達の心奥深く悲しみ、苦しさが見え隠れして・・・しかし絶対心根は腐らないと自分に約束した。 皆さんが自身の生活の足元を見直し未来へ繋ぐことを沢山の笑顔で私達に教えてくれたから。

叶うなら皆さんと共に一緒に本当の豊かさや幸せを求めていきたい、叶えて欲しい。

沢山のご支援に感謝しています。両手を合わせて感謝しています。

また明日ね~って!!手を振りながら帰っていく支援の車が見えなくなるまで私も手を振って何度も何度も頭を下げて・・・忘れません。今でもその光景、数々の思いやりを思い出しお手紙を見るたびに目が潤みます。

今そう、ようやく今 24名のスタッフにもいっぱいの笑声が戻っています。ただの笑声ではなく本当に嬉しい笑声なんですよ。

ありがとうございました。

本来ならば皆様から頂くお手紙や励ましにお一人づつ返信すべきなのですがこのお返事でごめん下さい。

また勝手ながらこの文面はお便りはありませんでしたが、他の沢山のご支援への感謝として4月に入って当社のホームページに掲載させて頂きます。
ご容赦ください。

皆さんの心に私達も添って行けますよう  またお会いできますよう 

2012年3月20日  うっすら雪景色の会社にて

高橋英雄 拝

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