解体

1年7ヶ月以上になるのに市内の当地エリア解体はまだ半分以下で、10月末で海から数百mの第二工場の解体が終りました。長男をおぶって関西の大手メーカーのさつま揚げや笹かまぼこを作っていた30年前の這いつくばるような下請け思い出の工場です。そして無添加練り物を20数人スタッフ全員万歳で初めて出荷した工場でもあり立ち会った息子たちとも簡単に解体されていく光景に暫し立ち尽くしてました。また11月から皆さんが人形やらを洗ってくれた自宅の解体です。せめてもの思い出にと柱やら解体時にと業者に頼みました。


 思い出や悲しさとは何でしょうか?古里は?なんて考えます。大雨が降れば浸水し変わってしまった光景の中で日々仕事をし近くの仮の住まいに帰る、言葉にならない何かを受けていて疲れがベッタリと心に貼りついることにふと気が付きます。道路から海の方に目をやれば数百メートルにピラミッドの様な分別瓦礫の山、高さがゆうに30mを越え7500坪の底辺、まさに吐き気を感じる我々のエリアだけの毎日膨れ上がる魔物です。風が吹けばアスベストもあり細かい粉塵が車の窓を白くする。市内の瓦礫は420万トン、二割も処理されてないと言われてます。


被害総額25億円を越す私共の事業、補助金以外の新工場の自己負担は8億円強、加えて震災前の借入が5億円。


 会社を閉じるのも選択肢だった。随分考えました。考えている内に、支援に来た皆さんを恨んだりした。復旧支援は我々を裸で寒風吹き荒ぶ廃地に立たせただけ、皆さんは本当に新工場の立ち上げ後も支援してくれるのか?私共を必要としていたからの支援だったのか?こんな荒んだ社会に何らかの役割を果たしてくれと期待し夢を託したからの支援だったのか?或いは私共が大切な存在だから? 全国から来てヘドロにまみれてのあの協同、我々を前に流した涙は、何の涙だったのですか? ゴメンナサイ!そんな失礼なと思いながら不信感は心の深くに入り込んだ時もありました。自己責任です、選択はいつでも最終的にトップがして最終責任はトップが取る。義援金は本当に有り難く頂戴しました。


いくら頭を下げても足りないが、今は素っ裸。借入の担保さえ荒れ地があるだけ価値がない。津波で亡くなり行方不明含めて石巻圏6000人、首を吊り自殺した三人の知人友人、生き残ったのは偶然。そして一時は連れ合いや子供さえも信じられなくなりスタッフも解雇ゆえだが誰も来なくなった。そんな中、遠くから毎日ヘドロや瓦礫の中の機械や工場片付けに来てくれた皆さん、避難所の人達から当てにされた、それだけが私の支えだった。死を選ばないで良かったと今は言える。


そして震災前を超える、原点を見つめ続け、自らの立ち位置をより明確にした、丁寧な生き方をと新工場に賭けている。何が正しいか、大切か、大事なことは、譲れないことはとあれから毎日どんな日でも日記を欠かさない。壁はあるが思いを強くすれば壁はない。今はそれぞれの3-11を持つ仲間がいると信じている、信じるに足る私共でありたいと。 

関連記事