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お世話になりました皆様へ

  本来であればお一人お一人のお名前を手書きでお出しするところですが、当方の現状をご理解頂き「お世話になりました皆様へ」という宛名での失礼をご容赦ください。

省みれば・・・という言葉から書き出せないほど、はや1年になる当地石巻は現工場の二階から見れば未だ隣接住宅の解体は終わっておりません。人が住めない住宅の二階のカ-テンが細かいホコリの風に揺れて、津波で流された住宅や工場跡には雑草が生い茂り、解体されたばかりの住宅跡地には生石灰の白い跡が残っています。石巻市だけで4000人を超える犠牲者の身元が分かった方は棺にも入れられず土葬され今は生石灰の跡が残るだけです、解体された住宅はまさに私たちの生きた証の生活全てが土葬されたように生石灰の白い跡を見せています。石巻で620万トンのガレキは行き場もなくまだ被災現実が重く圧し掛かったままです。

同じ現実に今まさにさらされているのが福島です。原発事故、いや事故ではなく国と電力会社、関係する企業、そしてそれを許してきた地元行政や政治家、住民と村や町の貧しい暮らしを作ってきた政治による攻撃のような感じさえする現場です。何より家や建物がそのまま残って、或いはホットスポットでも生活の場を移せず被災者が一生目に見えない恐怖と身体的異常を恐れながら暮らしていくことを無理やり選択させられたと。

隣県の私たちも原発からくる南西の風や雨を受け山の沢水を何ヶ月も飲んでおりました。海洋や河川の魚介類は汚染され魚によっては未だ数値も下がらず農地も大きな汚染の広がりを解決できておりません。悲しいですが事実でしかも現実です。

当時 避難所では食事も水もないところも多く私どもも皆さんのご支援がなければ今こうして机に向かうことも出来なかったでしょう。

温かい励ましや食べ物、日用品、義援金、ヘドロやガレキ掃除、車まで頂戴いたしました、心から感謝いたします。救っていただきました。

生き残ったのは本当に偶然としか言えません、そして今 被災地では心的な悩みを抱えている方が多くなりました、癒すすべもなく夢に見たり突然悲惨な記憶がよみがえったり躁鬱になったり、私の周りでも知人が三人自殺しました。酒やギャンブルにおぼれて家庭内暴力も増えているそうです。

そんな中 本当にお陰さまで2011年10月1日、6ヶ月半ぶりにたった1生産ラインですが、消えていた火をつけることが出来ました。全国から800を超えるおめでとうのメール、寄せ書きも頂きました。

21名のスタッフが戻ってきました、3月30日75名の全員解雇は苦渋の選択でしたがようやく再雇用できました。地域では小規模の機械会社や電気設備、包装資材や長距離トラックの会社が復活して私どももその中の一社として地域で元気を取りもどして出発ができたのです。

当地は1~2m地盤沈下しており地震や津波や台風がくれば干潮でさえ盛り上がって見える海や川がまた攻め込んできます。

現工場で1年間生産し、来年秋には石巻を離れ隣町の小高い山の中腹にメイン工場移転の計画を作り始めました。

海の近くの第二工場は大潮の満潮時には敷地に入れないほどに海水が入ってくるし工場の床の下は海水が出入りしています。

新工場建設に当たり61歳にしてまた借金をしなくてはなりません(20年払いだと81歳=苦笑)が、これまでの体験や現実を引きずりながら生きていくしかないと考えています。しかしあと10年.15年残された人生を何のために生きていくのか。正直分からなくなっています。生きる意味です。人生は私のもので自分が生きたいように生きる、血肉を作る食品に気を入れて頑張ってきた自分に、残され限りある年月をどういう風に生きたいか分からないと震災のお陰(と言ってはなんですが)で考えさせられました。

食の仕事はしていきたい、当然素材が生きる無添加です、食を大切にする人は自分を大切にする、自分を大切にする人は人を大切にする。震災では価値が変ったしかし新たな価値を作るには力がない。新工場は3.11で考えたことを何年もかかると思います、スタッフや商品に乗せて行きたいと考えています。

ダメ-ジを乗り越えて精神的な自立を地域で作り上げる、そして「祈りのある工場、会社」を作れればと。皆さんの支援なしでは出来なかったと。改めて感謝申し上げます。有難うございました。 

平成24年2月吉日
〒986-0024  宮城県石巻市川口町2-1-35 

㈱高橋徳治商店 代表取締役 高橋 英雄

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